映画という虚構

映画は良い。とにかく良いのだ。「面白い」のではない。ただ、良い。私はそう信じて疑わない。映画が嫌いな人などいるのかとさえ思う。
「いやあ、映画って本当にいいものですね。」
という水野晴郎の言葉以上のものはない。
全ての映画作品が面白いわけでは決してない。つまらなく、くだらない作品も多くある。しかし、それらも含めてシネマという世界は素晴らしいと断言したい。

ただし、映画というものは虚構でしかない。嘘の物語を職業俳優が架空のキャラとして演じている。ドキュメンタリー映画にしても、私たちが見ているのはカメラのフレームに切り取られた世界を制作陣の思惑通りの順番と編集で見せられている。私たちはフレーム外の世界を知ることはできないし、当然、提供された映像以上のものを知り得ない。

しかし、そんな虚構世界における嘘の物語とわかっていながら、私たちはその世界に取り込まれるように感動し、時には涙してしまう。
映画の何がそうさせているのか。私たちはどのように物語に引き込まれるのか。本稿ではこの映画の仕組みともいえる魅力の謎を考えていきたい。

総合芸術としての映画

映画とは何かを考えるうえで、もっとも包括的にその総体をとらえているキーワードは「総合芸術」であろう。

芸術史において六つの重要な分野がある。
空間芸術としての建築、彫刻、絵画
時間芸術としての音楽、舞踏、文学

映画はこの六つ全てを包含しうる第七芸術であり、総合芸術であるとする言説が存在する。
つまり、この物理的現実世界を構成する様々な要素を全て内包できる映画はもはや、この世界を複製しうる、もしくは新たな世界をそれ自体の中に創造することができる総合芸術なのである。

カメラの特性

では、映画がいかにして「世界の創造」を達成し、私たちに作用しているかを考える。
注目すべきは、カメラである。
カメラなくして映画は成り立たない。つまり、カメラの特性が映画の特性を形作ると言っていい。
カメラはこの世界の断片を切り取り、この世界の忠実な複製を私たちに提供する。その一つひとつの映像が映画世界という新たな世界を構成し、創造し、私たちをその中に取り込まんとする。

カメラはこの現実世界を完璧に複製した姿を提供できる。このカメラのリアリズムは絵画のリアリズム志向に問答無用で終わりを告げるほどのものであった。
少し脱線するが、絵画は写真に敗れたことで、絵画だけの表現方法を獲得した。精神世界の表現である。人間の精神の介在というリアリズム的弱点を逆手にとってモダニズムへと歩みを進めたのだ。その中では純粋な精神世界の表現としてのドイツ表現授業やシュルレアリスムが生まれた。また、複数視点からこの世界を提示することで、ある種の新たなリアルを志向し、絵画の中で現実的な時間制や空間性を表現しようとしたことで、セザンヌらの歪んだ絵やキュビズムなども生まれた。

このように、描き手の意識や視覚認識が入り込んだ絵画に比べ、カメラは一切の感情を持たない機械の眼で本質的な客観性を保証し、現実世界の複製を提示する。
そうして提示された映像を目の前にして私たちは、そこに映る一切のものに対して懐疑的な視線を向けることはできない。映像が持つ事実性•記録性•証拠性という特性に私たちは無意識下で絶対的な信頼を置いている。このカメラの特性への信頼が、目の前の映像が明らかな虚構世界であっても、「映像として存在している」事実が私たちを惑わせ、物語世界へと接続させるのだ。

世界の創造

では、少し話を戻して、現実を忠実に切り取った圧倒的な客観性を持つ映像がどのように映画として新たな世界を構築するかを考える。
リュミエール兄弟の『工場の出口』(1895)や『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896)のような定点カメラでとらえられた映像は現実世界の複製ではあるが、私たちはあれらの世界に取り込まれはしないだろう。なぜなら先ほどから口うるさく書いている通り、映像は本質的な客観性を持ってしまっているからである。映像は私たちに客観的な世界を提示する、つまりは私たちを映像世界と無関係の客観的な立場に置く。

映像の記録性や証拠性は言い換えれば、過去性ともできよう。映像で提供される事象は全て過去に既に起きてしまったことであり、私たちに介在余地はない。切り取られた世界のただ一つの映像は世界の複製に留まり、カメラと映像の特性は私たち鑑賞者をその世界の蚊帳の外に置くのだ。

ではもう一度問う。
映画はいかにして世界を創造し我々を取り込むのか。
答えは映像を組み合わせることである。

映像の組み合わせ-モンタージュ

映像が組み合わされる、つまり複数の映像がモンタージュされることではじめて、映画は総合芸術たりうる。絵画のモダニズムでも志向された複数視点からこの世界を提示することにおいて、映画の右に出る芸術は存在しないだろう。映画だけが唯一、この世界の完璧な複製空間を時間の持続性とともに提供し、なおかつそれらを組み合わせることで理論上は無限に時間と空間を補完し続けられる。

こうして映画世界が複数の映像のモンタージュによって構築されるとなぜ、我々がその世界に取り込まれるようになるのか。それは、我々がその世界を想像できるようになるからである。

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